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篠原雅登 | 退屈な人生にサヨナラをしたいなら

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篠原雅登 | 退屈な人生にサヨナラをしたいなら

退屈な人生にサヨナラをしたいなら

退屈だった。
希望なんて見出せなかった。
でも、人との出会いで全てが変わった。
昔は、考えもしなかった会社の設立。
日が経つにつれて、多くの人との関わりから少しずつ芽
生えてきた願いと想い。
それらに共鳴した仲間が、各々できる能力を最大限活か
そう、という結束が僕を動かした。
「面白いじゃん、やってみようよ」
一人、また一人と、そんな声が上がる。
マンションの一室。狭い部屋で肩を寄せ合いながら、未
来と夢を語る。
新しいことに挑戦した行動が、今の僕を形成する。もち
ろん、勇気が必要だった。
自信なんてなかった。
まさか、自分がと思うこともあった。
やりたいことがなく、探すにはどうすればいいのかもわ
からなかった。
自分がしたいようにしても、叶わなかった。
それでも今の僕には、仲間がいる。
「俺たちらしい環境を作って、幸せになろうよ!」
それぞれ備わったスキルや経験が集約され、一つの法人
となった。
僕は、人に恵まれている。
そう思えるまでに時間がかかったけれど、それも含めて、
ここまで生きた軌跡が全て反映されている。


り合いから突然ラインで、
「お前、多分この症状なんじゃない?」
その言葉とともに送られてきたURLを開くと、聞いたこ
とがある病名が表記されていた。
不安になった僕は、診断を受けに病院へ行くと、医師か
ら、
「ADHDですね」
聞いた瞬間、ショックと驚きが半分ずつだった。
診療結果と一緒に渡された資料には、イラスト付きで該
当する症状の項目が並んでいる。
ぼうっと、上から順に目で追った。見ていくと、確かに
そうだったな、と思い当たる節がいくつかあった。
幼少期から、母に怒られっぱなしだった。
自由奔放な性格から、親の言うことを聞かず、反発ばか
り。母は、固定観念に捉われており、「普通」を好んだ。
異端な行為や行動をとにかく嫌い、彼女の思い通りになら
なければ叱責。
幼いながらも僕が過剰なまでに限界を突破したい欲求が
働いたせいもあった。
同じ幼稚園に通う友人と追いかけっこをしていると、転
んで当たりどころが悪く手術。他にも同じように無茶をし
て入退院を繰り返し、園内で遊んだ記憶は皆無に等しい。
また、病院では暇を持て余すため、テレビゲームに没頭
するような生活。
小学生の頃は、ゲームを持っているだけで英雄のような
扱いを受けた。
ゲームに馴染みのない女の子を誘って遊んでいると、妬
んだ男友達から馬鹿にされることがあった。
喧嘩をふっかけられると、拳ではなく、箒のような長い
ものを振り回して、対抗。
そんな僕でも、問題児として扱われるわけではなく、い
わゆる元気で活発な子という立ち位置。
だが、突拍子もないことを発言したり、行動を起こすも
のだから、同級生の多くからは好まれていなかったような
気もする。表面的には親しげにしていても、浮いているか
もしれないと自覚するときもあった。
だからと言って終業後、まっすぐ帰宅しようとはしない。
親との距離は一定に保っていた。
何をするにも、母は僕を叱るため、理由をつけては家か
ら遠ざかっていた。門限を破って、遅く帰った後は必要最
低限の会話だけして、漫画を読み漁る。
漫画が本当の友達みたいに思っていた。
主人公が悪者を倒してヒーローになったり、落ちこぼれ
の少年がスポーツ界で名乗りを上げる青春ストーリーを見
ては胸が高鳴っていた。
おかげで僕の世界観は随分と広がった覚えがある。ペー
ジをめくるたびに鼻息を荒くして読み進めていく毎日。夜
中まで起きていることも少なくなかった。
小学校高学年になると、クラスメートの何人かは中学受
験を志し、遊びよりも勉学に励んでいた。
僕は、平均的な成績ではあったけれど、この頃から、頑
張ることをやめた。
思春期ならではの、勉強が大人になって役立つ意味を見
出そうとしていた。にも関わらず進学して、このまま何も
しなかったら、将来どうなるんだろうという、漠然とした
不安も抱いていた。
ふと、なんでみんなそれぞれ生きているんだろうとか、
生きている意味なんてあるのかと思い、立ち止まる。
漫画の世界に入ってしまえば、覚めない興奮に酔えるの
に、単行本を閉じると、途端に窮屈だと考えるようになっ



常に疑問を抱きながらも、時間は経過して、僕は中学
生になった。
野球部に属したけれど、三年間続けてもベンチ入りが限
界。あらゆるポジションを経験しても、全く集中力が続か
なかった。ホームベースから離れたところで待機している
その間、ぼうっと空を眺めているだけ。いざ、ボールが飛
んできても、反応できない。
そのとき、集団スポーツは向いていないと理解した。思
い出はあまりない。
高校は工業高校へ進学。
やりたいことがあったわけではなく、潰しが効くかもし
れないという理由。もし付け加えるとするならば、国語や
社会は苦手だった。暗記ができず、物事の本質を知れば納
得できる数学や理科が得意だったから。
特別な何かも起こらないまま、あっという間に受験生に
なった。同級生は勉強したり、就職のために準備に追われ
ていた中、僕は推薦で夏頃には進路が決まり、みんなから
は妬まれていた。
小学生ほど荒ぶっていなくても、彼らの態度を見ると、
僕はやはりどこかで浮いていたよう。
高校生活も終わりに差し掛かったとき、僕は接客業のア
ルバイトをスタートさせる。
対人関係を得意とも不得意とも思っていなかったけれど、
どちらかといえば抵抗感があった。克服する意味も込めて、
取り組んでみた。
働き始め、コミュニケーションの取り方や、話し方を覚
えられたことは大きな財産になった。
卒業して、大学生になったものの、このときが人生で最
も退屈だと感じていたかも知れない。
電気系の大学はつまらなかった。
寝てても単位は取れる上、やることがない。
何のために生きて、毎日を過ごしているのかわからなか
った。
寮暮らしを強いられた影響もあった。仲良くもない他人
との共同生活に嫌気が差していた。大学独特の文化なのか、
先輩からの寮生としての振る舞い方みたいなのを徹底して
指導された。
寮内や学内でのマナーや礼儀、慣習、それに加えて校歌
を暗唱させられる。なるべく寮にいないようにして、理由
をつけては友達の家に遊びに行って泊めてもらったりして
いた。
小さいときも、成人してからも、自分の家へ帰ることに
抵抗するばかり。僕の居場所はいつまでも見出せなかった。
昔から、何かあれば母には反発していたが、父に対して
はどちらかというと尊敬の念を抱いていた。
僕が高校三年生のとき、リーマンショックが起き、父の
生活スタイルは一変し、年収も半分以下に。それでもなお、
早朝から夜中まで働きづめ。父との数少ない接触に僕はな
るべく耳を傾けようとしていた。
ある日、そんな父が言った。
「バイトばかりしてないで、もっといろんな世界を見てこ



の言葉が絶妙なタイミングで重なり、二十一歳のとき
夏休みを使って、短期留学をしにアメリカへ飛んだ。
二週間程度ではあったけれど、僕にとっては衝撃的な出
来事であり、刺激そのもの。
特に驚かされたのは、自国をよく理解している点。僕自
身は、政治や経済に関して関心がなかったけれど、アメリ
カ人は常に最新の情報を入手して、生きることに対して実
直な姿勢が見られたのだ。
目的も目標もなく生きていた僕に、彼らとの接点のおか
げで、人生を大きく変えるきっかけを与えてくれた。
また同時に、電気系の企業に就職しないと決めた。
以前、インターンシップに参加したとき、この業界の人
と一緒に働くことに違和感を覚えていた。
日本のインフラを支える重要な会社で、文明の進化を感
じられるも、そこにいる人たちは退化しているようにしか
思えなかった。業務の効率化を図るために子細なコミュニ
ケーションを淘汰させたような世界は異様とも感じられた。
そんな将来に対して不安を抱いていた頃、留学先で知り
合った日本人の友人から投資の話を提案された。
留学を終えて一ヶ月後くらいだっただろうか。彼が今取
り組んでいることや、これからの世の中、自分の力で生き
ていかなければいけないという旨を熱弁される。
確かに、どんなにアルバイトを詰め込んだとしても、月
に二十万円程度を稼ぐのがせいぜい。
逼迫する現実が見えてしまった僕は、彼に習いながら投
資をやりつつ、ノウハウが学べるツールの販売をし始める。
アルバイトではなく、個人での営業。
もちろん、最初からうまくいくわけではない。誰もが喉
から手が出るほど欲しているものではなく、ネガティヴな
先入観を持たれる投資商材だから尚更。
知識をつけながら販路を拡大していく。交友関係が広い
わけではなかったので、飲み会を企画し、友達の友達を呼
んでもらい、さらにその先にいる人たちを紹介してもらい
人脈を作っていった。
たくさんの人と交流を深め、本を読み、セミナーを受け
たりしていくと、人生に辟易していたこれまでの僕は、な
んて浅はかだったのだろうと落胆した。
世の中にはあらゆる情報が蔓延し、何が正解で不正解な
のかを、きちんと自分の物差しでキャッチしなければなら
ないことを思い知る。
多くを学んでいるうちに、自らで投資していたものが好
調になり、営業成績も伸びて来ていた。
こんな大学生らしかぬ生活を送っていると、単位が足り
ず留年し、二十三歳のときに中退。
だが、問題なかった。
所属していた学部では、ある時期になると、強制的に長
期間研究室にこもる必要がある。
僕にとっては重要性を帯びなかった。
仕事をしているうちに、付き合う人たちも変わり、過去
の話よりも未来を話すことに喜びと楽しさを見出していく。
僕の居場所は、こんな小さな世界ではない。
僕の居場所は、もっと遥かに大きな世界だ。
ある日、一緒にビジネスをしていた僕のメンターのよう
な人の存在に圧倒された。
その人はセミナーを自ら企画したり、百人単位のイベン
トを主催。
それを間近で見ていたとき、僕は人の上に立てないだろ
うなと思った。
彼のように、誰かを先導するような立ち位置を築ける自
信がなかった。たとえ、どれだけお金を持っていようとも。
幸いなことに、投資はうまく運用され、年齢に不釣り合
いの対価を得られた。
結局投資で稼いだものであり、自分の器以上の金銭を得
ることに、逆に恐怖を覚えてしまった。
また、成功だけではなく、失敗も繰り返した。うなぎ登
りのようにいった数字の推移は物の見事に転落。画面上に
映し出された無機質な記号に、一喜一憂するような負の連
鎖に陥っていた。
自分が社会における価値と、紙幣の価値は均衡していな



金だけが幸せの物差しではないことを、このときひど
く痛感したのだった。
だからこそ、メンターの人間力に気圧された。
僕はどこかでお金にすがっていた。
それだけでは人を動かす力そのものにはなれないことも
知った。
僕は考え方を改め、視野を広げようとしたタイミングで
住居を移った。寮を出てから知人が経営しているシェアハ
ウスに暮らしていたが、その頃は南千住で、品川へ。
住処を変えたほぼ同時期に、メンターの右腕のような存
在の人から連絡が来た。
「お前、多分この症状なんじゃない?」
好きなことに対しては周りの目を気にしないほど没頭し、
気づけば数時間経過していることも多々あった。
また、母への反発、クラスメートの中で浮いた存在、感
情の浮き沈み、物覚えの悪さ、度重なる交通事故、異常な
までの集中力のなさ等は、全てこのせいだった現実を突き
つけられる。
確かに落胆したが、今更過去を嘆いても仕方がなかった。
それに症状を調べていると、同じADHDでも立派に経営者
をやっている人もいたため、あまり深く考えず、個性とし
て捉えるようにした。
不思議と、病気と自覚してから、これまで以上に人の温
かみに触れられたような気がした。
僕が、少し人と違う人間でも理解を示してくれる。時に
は心無い言葉を浴びることもある。でも、それ以上に多く
の人に支えられ、生きていると実感。
一つの仕事にこだわらず、たくさんの職種を経験してい
くと、各所で新たな交流が生まれ、僕の居場所は少しずつ
広がっていく。一期一会優しい彼らをもっと尊重し、
大切にしなければならないと思えるようになった。
あるとき、知人が開催した異業種交流会に誘われ、そこ
で人材紹介業の人と出会った。
初めて知ったその職業に関心を持ち、話を聞いていくと、
自分もそんな業務をしてみたくなった。
というのも、投資商材を売っていたときに顧客の人生プ
ランをヒアリングしていた。稼いで何をしたいのか、どん
なキャリアプランを描いているのか等。
金銭面のみならず、仕事面もサポートできたら、もっと
幸せを提供できるのではないか、と。
最初はその人に転職希望者を紹介していくだけだったが、
しばらく経ったのち本格的に参入する形に至る。
ただ、その頃は焼肉屋の店長とコンビニ店員も同時並行
だったため、トリプルワーク。
結果的には折り合いをつけ、人材紹介会社に初の正社員
として勤めるように。
だが、そのとき衝撃的だったのは、税金等の支払いが多

、一ヶ月で得られるお金が想像以上に低いこと。
二十代半ばの年齢で、同世代と比べれば収入がある方で
はあったものの、納得いかなかった。それに、僕と同じよ
うに毎月の給料に不満を抱いている人は、きっと一定数い
るのではないだろうか。
そう思うようになってから、今まで以上に本を読み、何
から手をつければ仕事が終わり、どうすれば生産性をあげ
られるのか、模索していく。
思考しているものが整理され始めたとき、将来やりたい
こと、やりたくないことを精査すると、人生の選択肢がた
った一つだけ残った。
起業。
正社員で居続けることに限界が見えただけでなく、参画
した人材紹介会社のビジョンの不一致や、事業の方向性が
異なってきたりしていた背景もあった。
また、恩返しがしたかった。幼い頃、僕を叱ってくれた
母に。
あのときは、まだ精神的に未熟だった自分。母なりの手
段で、愛を届けてくれたことを、随分と時間がかかって理
解した。
大学進学のための莫大な学費を捻出してくれたにも関わ
らず、中退してしまった。二十三歳まで通わせてくれたそ
の費用を、返したい。
最終学歴が高卒になり、このままでは将来就職できる企
業も限られる。ならば、自分で切り拓くしかない。僕のた
めにも、そしてたくさんの愛をくれた母のためにも。
そんな想いで、秘密裏に資金調達の準備をして、合同会
社の設立を目論んでいると、次々と同志が集まってきた。
これまで経験したこと、ADHDであること、これからの
こと全てを理解してくれた人たちとの出会い。
ずっと前から企画していた交流会を通じて、僕がやりた
いと思っていた事業に共鳴し、賛同してくれた。
一人では無理だった。
仲間に支えられた。
だから、合同会社ではなく、株式会社としてスタートで
きた。
ずっと退屈だと思っていた。
でも、行動を起こして、僕は変われた。
人との出会いが全てを変える。
世の中には様々なきっかけが転がっている。
それを自分で探せるかそうでないかの違い。よく、チャ
ンスは自ら掴むものだという。
今、目の前にいる人との縁を大切にし、繋がりを濃くし
ていけば、自ずと描いていた未来を切り拓けるだろう。
僕も、目標がなく、どこを目指せばいいかわからなかっ
た。自分の居場所はどこにもないと思い込んでいた。
退屈な人生は、ない。
退屈にしているのは自分自身だ。
今の生活よりもちょっとだけ変わりたいそう考えて
いるならば、人生を攻めていこう。
この時代を謳歌したいなら、少しだけ刺激を浴びよう。
きっと鬱屈だと感じていた日々がバカらしくなるかもし
れないから。
人生に、自信をつけていこう。
積み重ねで、道は拓かれる。

モデル:篠原雅登
職業:人材育成業

あとがき:
人生は刺激に満ちている。
と私が思えるようになったのは割と最近の話だ。
人生が退屈だと感じたことはあまりないが、学生時代に
あまりいい思い出はない。友達は少なく、教室にいるより
も保健室や図書室にこもることが多かった。
私は一冊の小説との出会いと、高校二年のときに起きた
当時四十六歳の母の死で人生が変わった。
最初は絶望した。私はこれからどうなっていくんだろう。
どう生きていけばいいのだろうか、と。
だが、現実から逃げても仕方がなかった。多くの偶然と
経験が重なり、今の私がいる。
過去を振り返ってみると、私も多くの出会いに助けられ、
支えられた。人は一人では生きていけないのだなと、十代
のときに感じられたのは貴重だった。
今を生きる人たちは、たくさんの課題や難題と戦って生
きている。それらを投げ出すのは正直簡単ではある。だが、
いつかきっと、そのことに対して後悔するときが来るだろ
う。ならば、弱みを出して、救いの手を求めるのも良いの
ではないか。
人は一人では生きていけない。
その意味を深く知っているのが篠原さんである。
人生に絶望した。退屈している。投げ出したい。必死に
なって生きたい、でもどうしたら良いかわからない。
そんな多くの悩みを、彼なりの経験値から答えを導き出
してくれるだろう。
だからこそ頼ってほしい。
人生は刺激に満ちている。
その探し方を提供してくれるはずだから。

ライフストーリー作家®築地隆佑

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