LifeStory

林 芙美子 | 雪の町 

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雪の町

神聖だと云ふ事はいつたい何だらう? 彼女は、いつも、そんな場所に到ると、ふふんと、心の中で苦笑してゐた。金使ひが澁い癖に、藝者に對しては、まるで、犬猫同然にしか考へてゐない町長が、公のもよほしごとがあると、木石のやうな固さによそほうて、その式に參列し、きまつて、一場の訓辭をたれる。式が始まる前には、東方を向いて宮城禮拜があり、英靈に對して默祷がある。きまりきつた一つの型が、大眞面目で演じられる。誰一人として不思議がるものはない。美津江は、そんな場合に、立たされた時、きまつて、吐氣の來るやうな、憤りを感じないではゐられなかつた。
神聖とは殘忍なものだと思つた。
戰爭も神聖だと云はれてゐた。だけど、こんなに毎日が追ひたてられるやうな生活でゐて何が神聖なのだらうと、彼女は不思議で仕方がない。若い妻は、戰野に良人を送り、その良人の戰死を知つても、毎日の新聞は、涙一滴こぼさないこの勇婦たちをたゝへてゐる。
神聖な未亡人になつた以上、涙なぞ流しては人にわらはれるのである。戰爭は常に、神聖を強要した。
美津江はS町の藝者で、小さい時からの習慣でこの神聖と云ふ僞物を怖れてはゐなかつたけれども、その殘忍な效果には怖れをなしてゐた。一人の暖衣飽食も許さずと云ふおふれの建前から、藝者にも一課を與へようと云ふ論が起つて、美津江は五六人の同輩といつしよに、町の工場に通ひ、アルミ板の銹落しの女工になつて、神聖なる一課を受け持つたのであつた。針鼠のやうな、金屬性のブラシで、アルミニュウム板の銹を、一日ぢゆう、きいきいと音を立ててこする仕事だつた。同じ工場では、澤山の女學生も働いてゐた。みな、眞面目に働いてゐた。根つからの工員達がなまけてゐても、女學生だけは休みもしないでせつせと、工場の中をつばめのやうに行交うて働いてゐた。
女學生は、最も神聖さを好む人間だと、美津江は哀れみの思ひを持つて眺める場合がある。ねえ、めつたな口車には乘らないでね。必勝の信念で働けとか、戰場の勇士に負けぬやうにとか、全員火の玉とか、いくら、工場内にポスターを張りつけたつて、指令を出す上の役員が、夜は宴會つゞきで、あさましく、鯨飮馬食して涼しい顏をしてゐるのよ……
何も知らない、純眞な學生こそ氣の毒なものだと、美津江は、制服姿で働いてゐる女學生を呆んやりと眺める時があつた。
「この戰爭で、いまのところ、神聖な人間つて云ふのは、兵隊さんと、女學生きりだわ。ねえ、まアさん、さう思はない? 神聖なものはみじめよ。第一、馬鹿正直で、馬車馬みたいに走らされて、乘つかつてる人間は汗もかゝないつてことなのね……」
夜の座敷で、美津江は醉つて來ると、助役の眞木の膝をつゝいてはからみ始める。
「うん、美津も、醉つて、そんな理窟をこねなければ、俺の妾にしてやつてもいゝンだが、何しろ、お前は勝氣で困るんだよ」
湖上落月型と云ふ禿げかたをしてゐる、背のひくい助役の眞木は、好人物な笑ひ顏で、美津江の手をとつて握り締めてゐる。
十六の年から、さんざん東京で苦勞をした揚句、二十二の春、このS町にうつつて來た。今年は二十三、鼠の年ださうである。
すこうしばかり藪睨みで、左の眼の下に泣黒子がある。だから、美津江は、この泣黒子の爲に、一生不運なのだとあきらめてゐた。いままでに、好きな男の二人や三人はないではなかつたけれども、どの男にも、どうした事か縁がなかつた。
色白で、小さい顏のせゐか、子供々々してゐる。肉親と云へば、蝙蝠傘の修繕をしてゐる祖父が一人きり。驛の前の土産物屋の二階を借りさせて住はせてゐた。
三月九日の下町の空襲の時、淺草の松葉町で、すつてんてんに燒いてしまつて、文字通り命からがら、二人は知人を頼つてこの信州のS町にやつて來た。知人の世話で、接待婦と云ふ名目で、柳屋と云ふ家へ世話になつた。
美津江は東京がなつかしくて仕方がなかつた。美津江は、天井のひくい二階に、女達と寢起きしてゐるのだつたけれども、窓を開けると、戸隱とか、黒姫、高社の高い山々が見えて、五月頃になつても、眞白に雪をかぶつた山の姿が、美津江には淋しくてたまらなかつた。山には雪が白く光つてゐるのに、街道には簪のやうな櫻の花が咲き、麥畑がまつさをに陽に照らされてゐるのを見ると、美津江は、しみじみと田舍落ちして來たやうな氣がして、窓に凭れて、呆んやりと、その景色にみとれてゐる。何だか、ちぐはぐな景色だと思つた。そのくせ、夏は東京よりも暑く、冬が來ると、枕元に置いた飮みかけの茶さへ凍つて、手も足も出ない寒さになる。――一年たつたのか、一月たつたのか、考へに秩序がなくなつて、たゞ眼の前に見る人の顏や、景色だけが、水の流れのやうにすいすいと消えてゆく毎日であつた。
八月十五日、終戰のラジオを聽き、陛下のお聲に聲をしのんで泣いたくせに、美津江は、戰爭が濟んだ事に吻つとした。戰爭が濟んだと云ふ事が奇蹟のやうだつた。
S町では、終戰と同時に、娘を持つてゐる親達は、アメリカの兵隊が來ないうちに、もつと山の中へ隱さなければならないと、人知れず、山の中へ娘を連れて行つたものだつた。そのくせ、美津江達のやうな階級の女に對しては、平氣で、サアヴィスを頼むぞと云ふ氣配をみせて、露骨に、そんな慰安所をつくらうと計畫するむきもあつた。
美津江は厭な氣持ちだつた。
弱い者を何時も利用してゐる、町の有力者達のずるさがたまらなかつた。あれほど、人を見ることスパイの如く見てゐた人間達が、急に、根つからの自由主義者だつたのだと云はんばかりに、軍人の惡口を云ひ出し、果ては、戰死した將校の遺家族にさへも、辛くあたるやうな態度をみせはじめて來た。
夜の宴會はおほつぴらになり、いままではモンペを着て、座敷に出ると、そのモンペを買物籠にしまつてゐたものが、急に、自由時代になつたからと云つて、藝者は裾をひいて出るものだと知つたかぶりに通をふりまはす男も出て來たりした。
一應型通り、町長も助役も役を退いて、かつかうをつけたのだけれども、何時の間にか、勝手な輿論をつくつて、また、それぞれ、もとの役にもどつて知らん顏で、げらげら笑ひながら、役場の神棚を手荒くはづしてゐるのであつた。
形式的な神棚に反感を持つてゐた美津江も、今度は、かへつて、さうした手荒さではづされてゆく哀れな神棚に、ほろりとするものを感じてゐた。
美津江は、終戰になると、何時までも、かうした田舍にゐたくはなかつたけれども、急に行末の繁昌をみこして、手の裏を返すやうに、大切にしはじめたお神さんの口車に乘せられて、仲々東京に歸つてはゆけなかつた。

正月も過ぎて、また思ひ出の三月が來た。或日、小雪のちらつくどんよりとした朝、美津江はあられの煎つたのが、少しばかり手にはいつたので、祖父のところへとどけかたがた樣子を見に行つた。
二階へ上つてゆくと、見知らぬ男が炬燵にあたつてゐた。
「あら!」
美津江がとまどひした風に、入口につゝたつてゐると、その男は、
「をぢさん、いま、すぐ戻つて來ます」と、云つた。
美津江はショールをぬいで、部屋に這入ると、炬燵から出て、きちんと坐つた男は、
「昨夜、この驛に着いて、宿がなくて困つてゐたところを、こちらの御老人が親切に泊めて下さいまして……大變助かりました」
と、叮嚀におじぎをした。
「おや、まア、左樣でございますか。蒲團もなくてお寒うございましたでせう? こんなむさくるしい處で……」
「はア、とても助かりました。もう、Fへ行くバスがないと云ふので、隨分宿屋を探したンですが……宿がなくて途方に暮れてゐた處を、こちらの御老人に助けていたゞいて……」
「やつぱり、あの復員の方で?」
「えゝ、さうです」
「まア、御苦勞樣でございますわ。どちらの方に行つていらつしやいましたの?」
「北支にをりました……」
「まア、左樣でございますか。でも、お怪我もなくて何よりでございますわ。お宅はF村なンですの?」
「いゝえ、東京なンです。柏木に家があつたンですが、こちらに疎開してゐると云ふものですから……」
「まア、それで、F村は始めてで?」
「えゝ始めてです。妹の友人の家だとかで、僕は、ぜんぜん知らない土地で……」
「さうですか、でも、どうぞ、ごゆつくりなすつていらつしやいまし、あのウ、朝御飯は?」
「はア、いまさき、いたゞきました。何から何までお世話になりまして……」
「ぢやア、まア、わたし、お茶でも淹れませう。あられを持つて來ましたから……」
「えゝ、でも、もうすぐ、バスが出るさうですから……」
「それだつて、F村なら、四十分もあれば參りますわ。お茶の熱いのでも召上つていらつして下さいまし……」
美津江が縁側の七輪に、炬燵の火種をうつしてゐる時、祖父が戻つて來た。
「おぢいちやん?」
「あゝ、美津か?」
「えゝ、いま來たところ……」
襖を開けて、祖父が、手籠をさげてはいつて來た。白い眉毛が眼尻までながくたれて、一寸見ると、禪坊主のやうな顏だち。酒好きとみえて、あから顏で艶々してゐる。
「兵隊さんのお客さんでなア。久しぶりに、昨夜は賑やかに、東京の話をして、えらい、わしもお客さんに樂しみさせて貰つた」
「まア、そりやアよかつたわねえ……。わたし、お茶でも淹れようと思つて、いま、火を熾しかけたところなのよ。あられの煎つたの少し、おぢいちやんにと思つて持つて來たのよ」
若い男は坐つたまゝ恐縮して、かしこまつてゐる。
耳の裏にまでのびてゐる、艶のない髮と、あさぐろい皮膚が、長いこと戰爭で、みじめに押しひしがれた、如何にも復員者らしい型を身につけてゐたけれども、眼だけは、ふつうの人とは違ふ、きれいな光を放つてゐた。學問をしたひとの眼だなと美津江は思つた。田舍の若者にはない、すつきりした眼もとをしてゐた。
「このひとは、帝國大學の學生さんでなア、お父さんは外國へをんなさつた方ださうで、偉い方だよ」
祖父が説明した。
「いや、少しも偉かありませんよ。困りますねえ……そンなに云はれたンでは……」
「いや、さうでない、帝國大學と云へば、大した金のかゝる學校でげせう? わしは、いつだつて、あの本郷の通りを歩くと、あゝ結構な學校だなアと思つたもンですぜ。アメリカさんも偉いもンぢや。あの學校だけはちやんと殘しといたンですからなア。――なアに、我々のやうな、しがないもンの家は吹き飛んだつて何ともないが、あゝした結構な學校は、いつの世になつても殘しておかなくちやもつたいないでせう。……わつしは、秋の頃になつて、あの大學の銀杏の樹の黄いろくなつた、こんもりした竝樹は好きでがすよ。何せ、あゝ云ふところは、せいせいしていゝもンだ。――大昔は、團子坂の菊人形なンてものがあつたが、あそこの菊そばなンてうまかつたな。それから三丁目のえちかつつて牛屋、ロースあほり一丁つてな事云つて、きれいな姉ちやん澤山ゐたもンだ。根津のごんげんさまにもよくお參りしたもンだし、逢初橋の夜店のロシヤパンなンて、お客さん知るめえなア……。何しろあの頃はよかつたなア。第一酒屋へはいつたつて、十錢位で、煮干でコップ酒が一杯飮めたからねえ……。しがねえ暮しぢやアあつたが、わしやア、芝居好きで、毎晩、芝居も觀に行つたものだ。これの亡くなつたおふくろを連れてね。わつしは、菊次郎つて女形が好きでね……。あゝ、もう一ぺん、あンな芝居を觀てえもンだつて思ひますよ。惜しい事に羽左衞門も、この一寸奧の湯田中つて湯治場で、つい、このあひだ亡くなつてしまつたが、もう、あンな役者は生れつこねえ……。何事も、運だとは思ふが、わつしも、時々、あゝつまらねえ世の中に生れ合せたもンだと、ぐちの一つも云ひてえところだつたが、昨夜、お客さんにお眼にかゝつて、わつしは、自分位しあはせなもなアねえと思ひましたよ。――お客さんのやうな、お若い方でせえ、五年も戰爭に行つてをンなすつた……濟まねえことで……」
「おぢいちやん、お茶がはいりましたよ。いつでも、昔はよかつたつて話でせう……」
美津江が笑ひながら茶を淹れてゐる。
雪は本降りになつて片栗のやうなきしきしした雪が積つてゆく。
「めつぽふ冷えるぢやねえか……。もう三月だつて云ふのに、何て、寒いところだ、美津、お前、また、少しでいゝから、おぢいちやんの好きなもの心配してくれないかえ?」[#「心配してくれないかえ?」」は底本では「心配してくれないかえ?」]
「お酒でせう?」
「うん……」
「今夜、誰かに、ことづけて上げるわ……」
炬燵にうんと火をついだので、ほかほかとあたゝかい。三人とも、炬燵に膝をつつこんで熱い茶を飮んでゐる。
「あツ、いけねえ、年寄りはこれだからあはうなンだぜ……」
「なアに、おぢいちやん?」
「ううん、お客さんに、リンゴを一つ食べさせようと思つて、作さんのところへ行つて、泣きつくやうにして、リンゴを五つばかり分けて貰つて來たのを、俺は忘れてしまうてゐたよ」
老人は籠の中から、リンゴを出して、炬燵の板の上に竝べた。

その日から、また二三日は雪の日が續いた。どんよりした、蛾雪の降りこめるなかに、山々が茫つとかすんでゐる。
美津江は三味線を引き寄せて、爪彈きをしてゐた。雪のだるまを口説いてみたら、何も云はずに解けちやつた……。世の中つてものは、何だかはかない。そのくせ、その、はかなさの底には、何とない愉しみも光つて見える。手にはとらへられない、何かが、若い美津江のこゝろに沈んで來る。四圍が色褪せて、薄暗くなるまで、二階の炬燵にうづくまつて、呆んやり考へごとをしてゐる。明治時代の、色繪で、鐵道馬車の繪のついた呉服屋の廣告が壁のところどころに貼りつけてある。紺のビロードの袋にはいつた三味線がぶらさがつてゐる。藝者達の長襦袢や着物もだらしなくぶらさがつてゐる。同輩の小糸が、板昆布をしやぶりながら、昔の婦人雜誌を讀んでゐる。
「暗いのに、眼が惡くなるよ」
「うん……」
「また、今夜も小波さんの座敷か、厭になつちまふ……」
小糸は、一生懸命で雜誌から顏を擧げない。飯盛女のやうに、ずんぐりむつくりの大きな躯つきだ。美津江は、ふつと、祝五郎と云ふ男の顏を思ひ出してゐた。
あのひとは、無事に、F村へ戻つて行つたかしら……。二三日前の事が、もう過ぎてしまつて、思ひ出のなかの事になつてしまつた。
よろこんで、また、きつと寄せて貰ひますと云つて戻つて行つた。そして、それはそれつきりのことになつた。畢竟は、偶然の花火なのだ。ぱあつと燃えて、それきりのものだ。その偶然の花火を見つめて、愉しみや、心配事をつくる、人間の宿命が、美津江にはかへつて慕はしいもののやうに思へた。
美津江は、障子を細目に開けて、雪の景色を眺めてみた。別に、珍らしいと云ふわけではなかつた。人戀しくなつた氣持ちのやり場に屈して、おどろに降る雪の氣配にみとれてゐる……。
「美津ちやん」
「えゝ?」
「今夜、光樂座で實演があるんだよ」
「へえ、誰がやるの?」
「時代劇の映畫俳優が來てるんだつて。行かない?」
「小波さんの座敷はどうするの?」
「どうせ、長い座敷だもの、觀ちやつてからでもいゝわよ。かまふことないよ。行かうよ。無法松の一生つてのをやるンだつてさ」
美津江は、「さうね」と云ひながら、雪の降るのを眺めてゐた。
その夜。美津江は、芝居には行かないで、祖父の所へ酒を持つて行つた。
「おぢいちやんお酒だよ」
「あゝ、美津か、有難えなア。早く飯も濟んだし、わしア所在なくて、講談本を讀んでたンだが、今晩は、馬鹿に氣がめいつて、いやに、東京へ戻りたくてさ、さつきも、つまらねえ事ばかり考へてゐたンだよ。わしも、まんざら、仕事もしねえで、かう、何時までも、ぶらぶらしてもゐられねえと思つて、いろいろ考へてるうちに、心細くなつてね……そこへ、酒と聞いちやア、うれしくなつちまふぞ。――お前、お座敷かえ?」
「えゝ一寸、油賣りに來たのさ。わたしも、一日退屈で、雪は降るし、くさくさしてたのよ、おぢいちやん……」
「燗をしてやるから、どうだ、二人で飮まうぢやねえか?」
「さうもしてられないけど……一杯位つきあひます」
祖父は美津江から風呂敷包みを取つて、酒瓶を出した。
「ほう、肴つきだぞ、こりやア、肉のあついするめだなア、珍らしいものだ。酒もたつぷりある。あゝ、うれしいねえ、美津……」
「よろこんでくれるから持つて來たくなるのよ」
「そりやさうさ……」
軈て酒をつけて、炬燵にさしむかひで、二人は飮みはじめた。
「ほら、この間の、兵隊さん、何か、便りあつて?」
「あゝ、丁寧な手紙が來てるよ。娘さんによろしくとあつたぜ……」
「いゝひとね」
「うん。いくつ位だな?」
「さうね、復員して來た人は、苦勞してるから、老けてみえるけど、さア、二十五六つてところぢやない?」
老人は、手仕事の箱の中から、祝と云ふ男の手紙を出して來た。
「二三日うちにうかゞひますつてさ……」
「さうか、よつぽど、うれしかつたンだよ」
「さうでせうかね」
美津江は一杯飮むと、ぢいんと躯ぢゆうが熱くなつて來た。
いままでに、誰とも約束した事もなく、何物も望まない、云はば、うき草のやうな暮しだつた美津江も、この頃は、田舍暮しのせゐか、妙に、いまのまゝの生活でゐる事が不安でならなくなつて來てゐる。
「美津、お前、東京へ行く決心つかねえかえ?」
不意に祖父が尋ねた。
「そりやア、わたしだつて歸りたいのよ。でも、いまは、轉入が出來ないし、それに、まだ借金も殘つてゐるし、まア、あつたかになるまで、おぢいちやん、待つてよ。あつたかくなつたらわたし、何とでもしますからね……」
「さうさ、轉入が出來ねえンだからなア……」
祖父は寒さうに鼻をかみながら、入齒の奧でするめを噛んでゐる。
美津江は、七時が廻ると、身支度をして戸外へ出て行つた。雪はやんでゐたけれど、ひゆうと身を切るやうな冷い山風が吹きつけてゐた。
「おい、美津江!」
齒醫者の、明るい軒燈の下から出て來た男がゐた。透かしてみながら、
「なアンだ、まアさんぢやないの……」
「あゝ、お前、どうした? いまごろ……」
「おぢいちやんのところへ行つて來たのよ」
「ふふん、若いおぢいちやんぢやねえのか?」
「さうさう、頭の禿げてないお方のところ」
「馬鹿! 丁度いゝ、お前も小波だらう?」
「えゝ、まア、そンなものよ」
「ぢやア、俺と一緒に行かう……」
「お神さん、やきもち燒いてよ」
「たまには、燒かしておくさ……」
「いやなまアさんだわ」
かつては、パラシュウトを縫ふミシンが、この、小波の廣座敷に澤山竝んでゐたものだのに、終戰以來、澤山のミシンは姿を消して、また僞物の良寛の大幅の軸が床の間に吊りさがつてゐる。床脇には、五葉の松の鉢が飾つてあり、ずらりと、趣味の惡い元祿の座蒲團が竝んで、もう、席はそろそろ亂れかけてゐる。
何の宴會だか、美津江は別に聞いてもみない。座敷にはいるなり、信用組合の金井が、美津江の手を引つぱつて、
「これは、東京産の美人でございまして」と、不粹な紹介をしながら、床の前の男のところへ連れて行つた。
正面の客は、土龍のやうな男で、何をする者とも判らない。さして云へば、土木屋の親分。さかんに、指環をはめた手で、外國煙草をみせびらかして吸つてゐる。
「ほう、これは美人ぢや。山田五十鈴の顏を小さくしたやうな顏だな。――金井君がパトロンかね?」
「ヘッヘッヘ……と、云ふわけなら、今夜あたり、二人でここへ現はれてはをりませんな……」
「珍らしいね、野放しとは……こんな、勇士ぞろひの町で、この美人を野放しにしておく術はあるまい……」
美津江は、神聖と云ふ言葉を何の氣もなしに思ひ出した。こんな男が、戰爭中はのさばり返つて、正直な人々をたぶらかしてゐたのだ、と、さう思つた。
この秩序のない日本の自由と云ふものは、まるで、アメリカの船から運ばれて來たもののやうに考へ違ひして、何から何まで、とり違へてしまつて、珍らしい煙草を吸つて、そつと利益の分配をねらつてゐるといつた人間を平氣ではびこらしてゐる……。
人間らしい情熱は何もありはしない。只、觀念的に、小さく運動を縮めてゐると云ふだけで、汚れた人間の魂はなかなかきれいにはならないものなのだ。
「あゝ、思ひ差し……」
「わたし、お酒駄目なんですのよ」
「藝者が、飮めないつて事はないだらう……」
「えゝ、それが駄目なンですもの……」
「一杯だけ……」
「一杯も駄目。アイスクリームなら戴きたいわ」
「アイスクリーム?」
流石に土龍は驚いたらしく、
「飮めないのなら仕方がない。だが、こんな藝者は珍らしいねえ」
「えゝ、田舍もこのへんになると、變り種なのがゐますわ、わたしみたいに……」
「いや、おみそれいたしましたよ」
土龍は、大判の麻のハンカチで、つるりと顏を拭きながら、小糸に酌をさせて、ぐつと二三杯あふつてゐる。音の狂つた三味線が鳴つた。
美津江は、あれほど吐氣のした、神聖と云ふ、言葉や型がなつかしくなつてゐた。忍耐がなければやつてゆけなかつた。まるで、毎日が障碍物競走のやうな戰爭中のなかの、一つの眞率さ……。何とかして飢ゑる事なく生きたいと願ふ必死なあの眞率さを、美津江はなつかしく思ひ出してゐるのだつた。祖父と二人で生きたい爲……。S町へうつつた當時、厭な客もとらなければならなかつた。かうした世界では、正義とか神聖さを口にするものはない。それは樂屋裏の、最も人間的な場所になつてゐるのだから……。美津江は、いつも、この世の中と云ふものは、矛盾の渦のなかにゐるやうなものだと思つてゐた。その矛盾のなかには一つとしてまつたうなものは在りやう筈がないと斷じてはゐたけれども、祝五郎と云ふ男に對してだけは、少々、違ふものを感じないでゐられなくなつてゐた。
自分だけ醉はないで、段々醉つてゆく人間の亂れ方を見てゐるのは面白い。澤山の火鉢に熾つた炭の青い炎は、酒の醉ひを早くさせるに效果がある。土龍が第一番に醉つて、呂律がまはらなくなつて來た。
金井も、眞木も、そのほか十人ばかりの連中が、ことごとく正體もなくなつてきて、各々、手を振り動かし、歌ふもの、議論するもの、リンゴを皮ごと噛つてぺつぺつとはき出してゐる者……。
美津江は、そつと座をはづして、戸外へ出て行つた。ささめ雪が、しはしはとまた狹い山の町に降りこめてゐる。ふつと、淺草の夜の雪を想ひ出してゐた。――物心つきはじめてから、ずつと戰爭で、祖父の云ふやうな色つぽい淺草の景色はなかつたけれども、淺草と云ふもの自體には、庶民的な、氣取らない匂ひがこもつてゐた。美津江は、燒けない前の淺草がなつかしかつた。四圍の人達は、みな、淺草に溶けこんで暮してゐたし、田舍者のやうなずるさが少しもなかつた。恩を被せられるやうな事がなかつた。
その、淺草の姿は、もう燒けて、灰になつてしまつたのだと思ふと、それに、遠く離れてゐると、なほさら、いつそう、美津江はいとしくなつかしくなつて來るのだつた。
美津江は父の顏を知らない。早く亡くなつたと云ふだけで、氏素性がどんなひとかも判らなかつた。母と祖父だけが頼りだつたけれども、母も、美津江が十九の夏に亡くなつてしまつた。それ以來、祖父はずつと蝙蝠の傘なほしで、街々を歩いてゐたのだ。
そのころは、いまよりも辛い生活だつたけれども、都會の空氣は、貧しい者達に、何か慰めを與へてくれる。――田舍にはそんな夢がなかつた。誰もが觀念的で、誰もが、一城のあるじのやうな威張り方で……。人にほどこしを澁つてゐるくせに、人からはふんだんに崇拜されようとする、けちな官吏や、軍人が、この戰爭を主材として、田舍へ入りこんで來れば來るほど、S町ははつきりと、妙な形式をつくりあげてしまつた。
美津江は雪の町を、むしやくしやして歩きながら、また、自然に足は祖父のところへ向いてゆくのだ。
「おぢいちやん!」
美津江が二階へ上つてゆくと、祖父は炬燵に凭れてうたた寢をしてゐた。
「おぢいちやんてば……」
昏々と、いゝ氣持ちに寢入つてゐる樣子だ。さらさらと障子に吹きつけてゐる雪の氣配。天井の煤けた、荒れ果てた部屋の中に、ほんのひとかゝへの祖父の商賣道具と、炊事道具にかこまれて、祖父は炬燵に凭れてすやすやと寢てゐた。げつそりと衰へた姿を見てゐると、美津江は、もう、再び、祖父は、あのなつかしい東京を見る事はおぼつかないではないだらうかと云ふ豫感がしてならなかつた。
「おぢいちやんてば……よく寢てるのねえ」
「あゝ、あゝ、いゝ氣持ちだ。――小夜と、芝居を觀に行つてる夢をみてゐた……」
「ふん、また、おきまりの源治だなですか?」
「いゝや、今夜は、茜屋半七でな、鴈治郎の半七がえらいよくてなア、面白い事に、梅幸のお園……」
美津江は、見たこともない、役者の夢を語られたところで、思ひ出しやうもなかつた。知らない夢にはついてゆけない。
「おぢいちやん、酒殘つてる?」
「あゝ、まだ少々はあらう……」
美津江は瓶を透かしてみた。まだ二合ばかり殘つてゐる。茶碗についでぐつと飮んだ。レモン水のやうに、さつと冷く胸の奧に浸みこんで來る。
「あああ、もう、つくづく長い雪にも飽きちまつたねえ……。早く、暖くならないかしら……暖くなつて、かう、鶯が、ちつちつつて、笹鳴きするやうな、長閑な日つて、早く來ないものかしら。――梅が咲いてさ、生みたて卵子のあつたかいのを、唇の切れるやうに熱い味噌汁に、ぽんと割つて、すうつと吸つてみたいわ……」
醉ひがまはつて來た。さつきの宴會の人間と、少しも變らないやうな混亂が、胸のなかを引つかきまはしに來る。
祝さんて方は、旅のお方、お出でになるやうな方ぢやない……即興の歌が口をついて出る。
「えらい御機嫌だなア……」
「うん、いま、醉つたのよ。おぢいちやんとこにゐるのが一番いゝ氣持ち……。眉毛の白いおぢいちやん……」
「何だえ?」
「東京早く歸らうよね」
「そりやア、さうさ……」
「それまで、元氣で生きてなさいね……」
「馬鹿だなア、わしアまだ、七十五だぞ、あと二十五年はある……」
「おぢいちやんの慾張りツ!」
「あつはツはツ……死ぬ時が來れば死ぬさ。まア、東京を見ない事には思ひが殘るから喃……」
芽萌えの頃の、銀杏若葉にめぐまれた、あの、ぱあつと緑に染つた本郷の、大學の景色が、美津江の心にふつとかげつて來た。
その夜、美津江は、祖父の部屋の炬燵にもぐり込んで寢てしまつた。ほんの少しの酒に醉つたのも、東京を想ひ、人を想ふ氣持ちも添へて、その醉ひは、若い美津江の胸の中に森々と深まつてゐたのであらうか……。祖父は、膝かけにしてゐた汚れた毛布を、美津江の、華奢な肩にかけてやつた。

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